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好みの話じゃなくて、好きの話

4/26(fri) 新宿Marble 平成最後のCRYAMYを見た

 

いろいろあって、ライブには友達と行くことになっていた。午前中で授業が終わり、GW明けに使うレポートに手をつけてから(終わらせるつもりだったけど終わらなかった)友達の学校へ。他の大学に入ることはなかなかないので新鮮だった。友達と合流してから一緒にその子が履修している5限を受けて(面白かったらちゃんと聞こうと思っていたけど、本当につまらなくて、友達と絵しりとりをしていた)なんとか90分を乗り越え、新宿に向かう。新宿には19時前に着いて、CRYAMYの出番にはまだ少し時間があったのでマーブル近くにある適当な居酒屋に入り、アルコールとエネルギーを摂取しながら時間が来るのを待っていた。

 

20時半頃に新宿マーブルへ。ここへ来るのは1/20以来、二度目になる。友達は中に入るやいなやドリンクを交換しに行って、さっきまで飲んでいたので私はてっきりウーロン茶とかを飲むのかと思っていたんだけど、生ビールを片手に戻ってきたのでビックリした(CRYAMYのライブ後、私も何故かビールを飲んでしまった。ビールの美味しさはまだわからん)。ライブが始まる前に飲み干し、コップを捨てに行った友達が戻って来て少ししてからライブが始まった。

 

フロアの照明が落ちてオオモリさんから順番に登場、一曲目のcrybabyが始まった。先日公開されたMVはもう何度見たかわからない。たった1分で、たった1分だから、引き込まれるしもう一度聴きたくなる。一曲目からタカハシさんのコーラスが目立っていてカッコよかったし、いつもより長く歌っていたので嬉しかった。それが終わると、二曲目テリトリアル。序盤にやるテリトリアルがすごく好き。まだCRYAMYのライブに行き始める前、狂ったように#2を繰り返し繰り返し聴いていた頃は、この曲は私にとって始まりの歌だったから。CRYAMYに出会った曲もテリトリアル、初めて買った音源の一曲目もテリトリアル。この曲を聴くとワクワクする。いつかライブの一曲目を飾ってみてほしい。たぶん今までで一番カッコよくなるんじゃないかと、そう思う。

 

MCを挟んで、正常位。ここの順番がちょっとあやふや。物臭が先だったかな。いや、正常位→物臭→雨の順番だったはず、たしか。正常位は、2月の終わりに西永福ジャムに友達と見に行ったとき以来だった。ありがちな感想かもしれないけど、サビまでのベースがとても好き。良い意味で浮いていて、溶け込んでいなくて、でもクセになるようなベースライン、というのかな。一番の終わりで演奏が少しちぐはぐ?になった気がしたけど、少ししたらもとに戻ったので安心した。雨もすごく良かった。タカハシさんが雨でコーラスを歌っているのを初めて見た気がする。いつも歌っているのかな、気づけていなかっただけかな。すごく良かった。正常位はベースが好きだけど、雨はギターの音が本当にカッコいい。アウトロの途中にある「ジャジャ、ジャーン」という音が好き(伝われ)。雨という曲名に、明るいとは言い難い歌詞、でもそれを乗せるメロディーや掻き鳴らされるギターは真っ直ぐに前を向いているような気がして、それがまるでCRYAMYそのもののようだった。CRYAMYの曲に綺麗事はない、だけどそれが綺麗な事で、絶望と希望が同時に存在しているみたい。憂鬱とか嫌悪とか憎悪とか、そんなマイナスな言葉でCRYAMYを語ることはもしかしたら簡単なのかもしれないけど、たしかにそこに嘘がないのはCRYAMYの良さなんだけど、最近は私は、そういう憂鬱に紛れた光というか、劣等感に寄り添うエゴみたいな、もっと広く言ってしまえばカワノさんの歌う愛が、CRYAMYの一番の良さ、だと思う。終盤のMCでカワノさんが溢した「生まれ変わってもバンドがやりたい」という言葉で、それが確信に変わった気がした。彼にとって平成はクソだったみたいだけど、私はどうだろうな、そんなに考えたこともなかったな。たった20年の人生を私はずっと平成で生きてきて、その最後の最後にCRYAMYに出会って、「平成最後にCRYAMYに出会えて良かった」と言えばもちろんそうなんだけど、それはタイミングがそうだっただけなんだとも思う。それがたとえ令和最初だったとしても私は「令和最初にCRYAMYに出会えて良かった」と言うだろうし、令和最後でもまたそう言うのだろう。初めてテリトリアルを聴いたのは平成最後の秋に差し掛かった頃だったし、初めてライブに行ったのは2018年も残り2ヶ月を切った頃だった。本当に、CRYAMYは滑り込みセーフで平成に食い込んできただけなんだ。でも、CRYAMYと出会ったのが平成最後の秋だったことも紛れもない事実。私がCRYAMYと出会ったのは、この平成だ。

一週間前のリリースパーティーでは一曲目だったディスタンスがこの日は最後から二番目だったんだけど、終盤のディスタンスは序盤にやるそれとは聴こえ方がまるで違う。どっちも好き、どっちも良い。本当にどっちも好きだけど、この日ばかり終盤で良かった気がする。序盤にやるディスタンスで伝わるものが覚悟だとすれば、終盤のこの曲から伝わるものはやっぱり愛情だ。平成のどこかに置いてきてしまったもの、落としてしまったもの、離してしまった人、何がどのくらいあるのか知らないけど、全部全部大切だった証拠がこの曲。イントロ前のMCの最後にカワノさんは「何が平成だ」と叫んでいたけど、少し前に「死ななくて良かったと思ったことはある」と言っていたように、平成にもそういう瞬間が少なからずあったんだろう。この日のディスタンスは、平成へのヘイトなんかじゃない、私には、背負いきれないほど抱えた何かへの愛に聴こえた。愛というと重く感じるからラブにしておこう。カワノさんもよくそう言っている。カワノさんのラブな歌が私はラブだ。それを演奏するCRYAMY、まさにラブカケルゴヒャク!うまい!

 

これを書きながら思ったけど、私は結構平成は悪くなかったと思う。何故なら、生まれ変わってもまた自分になりたいと思っているから。そりゃ嫌なことだってあったし、自分のことも好きじゃないし、高校生の頃なんか本当に真っ暗だった。それなのに私はまた、自分になりたいと思っている。「戻らない」と歌うディスタンスも、「絶望に触れていたい」と叫ぶテリトリアルも、泣き虫のcrybabyも、物臭も、雨も、平成最後に位置するCRYAMYは、私の今までを肯定してくれているみたい。そんなふうに「そんなんでもいいでしょう」と繰り返すtenは、吐き出すように、言い聞かせるように、平成最後に鳴らされた曲となった。やっぱりラブを感じてしまう。これから私が30歳40歳になったとき、平成のことを思い出せば必ずその最後にCRYAMYがいるだろうし、CRYAMYを思い出せば必ず平成の最後がそこにある。こんな素敵なことってないじゃん、と思う。それなら私はずっと、ちゃんと、平成も悪くなかったと言える気がする。やっぱり、出会うべき人には出会うべき時に出会うのだろうか。私は、平成の終わりに、CRYAMYに出会うべきだったのだろうか。どっちでもいいや、私はそうだと信じたい。

令和はもっと幸せにしてほしい。期待してる、CRYAMY。